しとろんのなかみ。

作った曲について、とかとか。

「救う」ということ。

 

どうもしとろんです。

久々にブログ更新します。

 

あまりに書かないせいで億劫になってしまっていたブログですが、もっと気軽に、ふと思い立ったら書けばいいや、そういうもんだと思い直し書くことにしました。

いつもは構成とか体裁を考えるんですけど、今日はもう一発本番みたいな感じなので、読みづらかったから申し訳ないです。米津さんのブログほどではないと思うけど()

 

実は僕、割と嵐のファンです。

※唐突ですいません、ちゃんと最終的に作曲の話になります。

コンサートも行かないしグッズも買わないので、ジャニヲタとまでは言えませんけど。だから、休止発表があってもそこまでショックでもなく、へぇ、そうなんだ、くらいでした。でも何故か夏休みに入ってから、狂ったように嵐のバラエティを見るようになって笑 やっぱりアイドルらしくない面白さだな〜とか思ってたんですけど。今日ふと嵐ファンの(俗に言うアラシアン?アラシック?)のブログを見たんですよ。そしたらまぁ、休止発表を聞いた時はご飯食べれなかっただの、眠れなかっただの、会見見てる時ずっと泣いてただの、凄いわけです。阿鼻叫喚の嵐だなと。別に上手くないと。で、なんでその人が嵐を好きになったかってのが書いてあったんですけど、「人生の一番辛かった時に、嵐に助けられた」からだそうです。

 

僕はこれを見た時なぜか、ふわっとした気持ちになったんです。なんとも言えない浮遊感に襲われました。

まさしく「救われた」と言うべき体験をした人がいることに感動したんだと思います。僕はおそらく誰かに救われたと強く思ったことがありません。人生のどん底に叩きつけられ、もう死んでもいいかって時に誰かに手を差し伸べられた、誰かのおかげで生きられたなんて体験はしたことがないんです。彼女のブログはその後、こう続きます。

「その時私は、嵐に一生ついていくって決めた。」

狂愛とも呼べる強い決意ですね。人は自分が弱ってる時、誰かに助けられるという経験をすると、最も強く愛情が芽生えるそうです。僕にはそういう、くるおしいほど絶対好きだと思える物に、人に、出会えていないのかもしれない、そう思いました。「恋は盲目」とも言うように、本気の愛情は理性をも狂わせます。僕はそれが良くないことだとずっと思っていました。

 

「恋人だから全て許せる」とか、「好きなら全て受け入れるべき」とか、「聴く前に高評価した」なんてのもよくYouTubeのコメントにあるけど、全て盲目的な考えです。好きな人だとしても、間違ってると思ったらそう伝える。好きな人に依存しない。客観的に良いと思ったら良いと言う。それがある種の好きな人への「誠意」だと思っていました。

 

……でも、何かを盲目的になるまで愛せることは、幸せなんじゃないかと気付き始めました。

きっかけは天気の子です。f:id:citron4869:20190828172350j:plain

微妙にネタバレになるかもですが、これは「世界か愛する人か」というテーマで、主人公は愛を選びます。それはとても盲目的で、それはRADWIMPSの歌の歌詞にもよく現れています。

 

君がくれた勇気だから 君のために使いたいんだ

君と分け合った愛だから 君とじゃなきゃ意味がないんだ

 

/愛にできることはまだあるかい

 

僕の中を光らせる鍵を なぜに君に持たせたのか

そのワケをただ知るそのために

生きてみるのも悪くははいよね

 

/祝祭

 

とてもとても「君」至上主義な歌詞ですよね。元々、RADWIMPSはそういう「君」を宗教や神とまで言わしめるほどの狂愛を書くことで有名だったので映画のテーマ相性がよかったんですね。いやそんな話はどうでも良くて。

 

次のきっかけがこれです。

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そう、VOCALOIDの祭典、マジカルミライです。

このイベントでも僕は、初音ミクやその他のボーカロイドたちに救われた多くの人々の言葉を見ました。ボカロPの中にも、初音ミクに救われた人が多くいます。VOCALOIDによって、居場所を見つけられた人とも言えます。僕にもそういう側面はあります。でも、「救われた」ほどではない。初音ミクをキャラクターとして愛しているかと言われれば、そうだと断言はできない。そこに、どうしても負い目を感じてしまう。劣等感がある。どん底にいたからこそ、そして音楽に、初音ミクに救われたからこそ、今度は僕がボカロを作るんだと僕は言えない。

誰かに、何かに救われて、それを愛している人を見る度に、僕は自分は冷たい人間なのかもしれないと落ち込む。優しい人間ではないのだと思い知らされるような気がする。

 

日本人は優しい。よく言われることだ。他人の目を伺って、自分ばかり損をする。多分僕はそういう日本的な性格ではない。自分が損をするのは嫌だ。優しい人間にしか優しくできない。優しくされた分しか、優しさを返せない。優しさが欲しいからと言って、誰彼構わず優しくすることも嫌いだ。でも、周りはそんな人間ばっかりなのだと思う。優しすぎる人間ばかりなのだと思う。いや、それは臆病と卑怯を混ぜ込んだ優しさではあると思うけど。

「自分の人生なんだからやりたいことをやれ」とか「嫌いな人間の顔色なんて伺うなよ」とかそういう自己啓発の言葉がよくTwitterでもバズる。要するに、みんなそう思ってるんだ。他人を気にして私なんでこんなに損してるんだろう。嫌いな人のためにこんなに悩んで私バカみたいだなって。だから、そんな人達の背中を押す言葉がもてはやされる。

僕みたいな、元から嫌いな人には嫌いとはっきり言えてしまう、心のない人間には刺さらないから、きっと僕がマイノリティなんだろう。だから、本気で死にたいとも思えず、すぐに立ち直れてしまうんだ。だから、「救われる」なんていう経験もできないんだ、なんて。

大勢の優しい人から見たらどう映るのだろうか。よく分からない。皮肉や嫌味だと思われるか。羨ましいと思われるか。僕は優しい人間になりたかった。厳密に言えば、優しくすることの出来る人間ではなくて、優しくなれる人間のことだ。

僕の音楽がいつか大勢の人を「救える」日が来ることを願う。そのためには、もっと損をして、もっと傷ついて、その後でもっと優しくなる必要があるような気がしている。

そして、盲目的な愛を、一度でいいからしてみたい。いや、それはあるかも?ある程度の盲目を自分で肯定した上で、盲目的な愛をしたいって感じかな。

 

それではこの辺で。

僕にとっては必要な覚書だったけど、ここまで面白くもない長文を読んでくれたあなたには多大なる感謝を。

最後に告知。

 

8/31に夏星の楽曲解説をこのブログであげますので是非見てください!(遅くなってごめんなさい)

 

あ、あと。

9/15に新曲あげます。多分。